【時代を塗り替える人々】奴間伸茂 塗料開発の次へ(前編)
激動の学生時代から塗料研究へ
PB二見:
はじめまして、ペイントビズという「建築塗装の新しい情報配信」を初めたPB二見といいます。
ご説明のとおり、この企画では「塗装業界の個性的な人々」を取材しています。
奴間(敬称略):
なるほど。なるほど。宜しく。
PB二見:
経歴を拝見させていただきました。
奴間さんは、1968年東京大学に入学された、との事ですが、確か60年代後半は「東大紛争」の頃ではなかったでしょうか?
奴間:
「真っ只中」だったよね。
僕が入学した昭和43年(1968年)6月に全学部ストライキ。そこから翌年1月に安田講堂だった。
僕は真剣に考え、行動したよ。
但し、ゲバ棒(角材)持ってヘルメットかぶって、暴力で社会を変えようとすることは、「絶対に良くない」。現にそのような活動の末路を見れば納得できますね。
一方、既成の政党が指導する方向も「何か違うな?」と感じたよ。
でもね、一般の学生には限界があった。社会に出て、自分の仕事を通じて地道に世の中を変えていこうと考えたんだ。
写真:1971年大学4年卒業実験中の奴間氏(写真提供:奴間伸茂)
僕は元々、丹下健三やル・コルビジェに憧れ建築デザインをやりたかったから、東京大学の、理科一類に入った。
しかし東大紛争の中で、もっと根本的なことをやりたくなり理学部化学科に進んだ。
修士、博士課程を経て学問に打ち込むつもりだった。
写真:1971年大学4年卒業実験中の奴間氏(写真提供:奴間伸茂)
当時、白黒写真とカラー写真とが大衆普及になるターニングポイントの年。
両方の写真が混在する貴重な時代。
PB二見:
奴間さんは大学卒業後、日立化成に入られていますが、1年間だけだったんですか?
奴間:
そう、本当は学校に残るつもりだったから、就職活動をしてなくて(笑)
確か4年の秋口、他の学生たちは全員、進路、勤め先はきまっていたけど、僕だけがまだ就活していたんだ。
それで、某大手写真フィルムメーカーの役員面接まで行ったんだけど、「あなた、在学中に…色々やってましたね…」、なんて、言われて落ちたりとか(笑)
ただ僕は過激な事はやってなかった。クラスの皆をまとめたり、学生寮の委員をまじめにやっていたからでしょうか…
それで日立化成に聞いたら、「ウチは大丈夫ですよ。きちんと…面接して判断します。」と、難しい試験を受けて、日立化成に入ったんだ。
日立化成では「塗料用樹脂を開発する部門」に配属されたんですけど、最終ユーザーの情報が中々入ってこないことがもどかしかった。塗料用樹脂が塗料メーカーを経て、自動車メーカーへ渡り、「どういう使われ方をするのか?」という情報がスグに伝わってこない。
苦心して開発した樹脂なのに、塗料メーカーへ出しても、どう評価されているのかも正確に伝わってこない。
そのタイミングで関西ペイントの途中入社の募集があって、関西ペイントに入社したんだ。
途中入社の募集は、関ペの会社始まって以来の大々的な中途採用で、定員20名に400名集まるほど注目されていたね。
その後は定年まで関西ペイントで働き、今に至るという感じかな。
PB二見:
関西ペイントでは、どのような業務を行っていたんですか?
著者:二見勇治 Futami Yuji
建築塗装アナリスト
企画・取材・撮影・動画清作・ライティング・マーケティング 担当
東京都出身。建築塗装業の長男として生を受け、多くの職人達の中で育つ。塗装職人と造園職人の修行を積んだ後、カメラマンへ転身。出版社カメラマンを経て2001年よりフリーカメラマン。
雑誌・書籍・広告撮影、塗装関連の写真・動画制作、リフォーム会社広告担当を経験。
建築塗装の新たな表現を模索中。