ペイントビズ(PAINTBIZ)

近代建築塗装発祥に諸説あり

どっちが本当?

建築塗装は、下地を理解いしなければ塗ることはできない。
新築でも、塗り替えでも下地によって工法が全く変わってくるからだ。

そして、その工法も誰かしらが開発を行い、その開発は突発的に生まれたのではなく、その前の時代から引き継いでできている。

そもそも、塗装は塗料を使って表面保護を行うものだから、塗料が絶対に必要だ。

下地を知るために、少しだけ塗料・塗装の歴史(下地)について考えてみたい。

塗料は人類の歴史を探る重要な手がかりとして、考古学の研究対象にもなっている。
数年前まではスペイン北部のアルタミラ洞窟に描かれた壁画が、約1万年~1万8,000年ほど前に塗料で描かれたとされ、人類の最古の塗料と壁画とされていた。
しかしここ数年、続々と新発見が行われ、2021年1月にはインドネシアの洞窟で発見された壁画では、約4万5千年以前に描かれたであろう壁画が発表されている。

国内では弥生時代から漆(うるし)が使われ、時代は大きく飛ぶが信長と秀吉が推し進めていた南蛮貿易では、漆やベンガラ、カイガラムシ(朱色の原材料)が大量に輸入され施工されていた。

その後の江戸時代では柿渋と渋墨が一般的に外壁に塗布されたと文献に多い。江戸の日本橋などのストリートシーンを描いたグラフティには確かに渋墨が目立って見える。
また江戸での藩の屋敷などにも施工されていたようだ。

しかし、筆者の独自見解ではあるが、幕末の写真(江戸末期にはごく少数の風景写真がある)には渋墨の木造建築物が少なく見える。
それほど多くは渋墨は塗られていないのではないだろうか?
クーラーの無い時代、黒い外壁材は真夏の西日、地獄のような暑さになることは想像に難しくない。
しかしその逆に、寒冷期の保温のために黒にしていたのだろうか。江戸時代の風景画に森や木が少ないのは、町では建材や燃料として森林を刈り尽くしてしまったという背景がある。

その歴史の延長で人は生まれ育ち、今人生を過ごしている。
塗料・塗装についての歴史を語ってしまうと古代史まで遡り、人類全体の文化・文明論や人類学になってしまうため、今回は国内の文明開化というイノベーションから起こった「近代建築塗装」について、「ちょっとだけ」記事化を行いたい。

さて、よく「日本発祥の地」という表現があるが、近代建築塗装の発祥は横浜といわれている。

時は江戸時代末期、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、江戸幕府とアメリカ合衆国が横浜村(現横浜市中区)で日米和親条約を締結した。
この瞬間から日本は鎖国から開国となる。現在の和洋折衷な日本文化が始まったターニングポイントだ。

IT産業でいうところのシリコンバレー的なエリアが、当時の横浜にあたる。
横浜はビール、パン、アイスクリームなどの食べ物、水道、外灯、公園、舗装路、警察、鉄道、ホテル、銀行など、現代日本の社会的インフラの殆どが誕生したといっていいだろう。

更に、現在の清水建設、鹿島のようなゼネコンも、横浜の外人居留地建設から会社規模が大きくなったいった。

では近代建築塗装の発祥はどうだろうか?地域的なことは「横浜」といわれている。

しかし、ダブルスタンダードがあるのをご存知だろうか?

株式会社櫻井(国内最古の近代建築塗装工事会社)が唱えている説と、一般社団法人日本塗装工業会(以後:日塗工)の見解の違いだ。

次のページで詳細を伝えたい。

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二見勇治

著者:二見勇治 Futami Yuji

建築塗装アナリスト
企画・取材・撮影・動画清作・ライティング・マーケティング 担当
東京都出身。建築塗装業の長男として生を受け、多くの職人達の中で育つ。塗装職人と造園職人の修行を積んだ後、カメラマンへ転身。出版社カメラマンを経て2001年よりフリーカメラマン。
雑誌・書籍・広告撮影、塗装関連の写真・動画制作、リフォーム会社広告担当を経験。
建築塗装の新たな表現を模索中。