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水谷ペイント 100周年記念動画 YouTube公開

時代の変動100年。世情と市場ニーズから生まれた水谷ペイントの企業活動。

2023年8月3日、YouTubeに「水谷ペイント株式会社 100周年記念動画」が公開された。

100年の社会情勢の変化と企業活動とをリンクさせた「時代と塗料」が垣間見れる動画だ。

なぜコンクリ床面の塗料が生まれたのか?
どうして、水性塗料が多くなったのか?など、各時代の世相・世情や市場ニーズから塗料誕生の意味が分かる動画構成になっている。

水谷ペイントを知る上で、非常に興味深い動画だ。

以下、動画テキスト引用
引用:水谷ペイント株式会社 100周年記念動画


当社は2022年3月に創業100周年を迎えました。

創業は1922年。
1922年とはどんな年だったのでしょうか?

水谷ペイントが創業した1922年は、第一次世界大戦が終わった3年後。
第一次世界大戦中の日本は、戦争の特殊景気で輸出貿易が飛躍的に拡大し、製造業や海運業が発展するなど、産業の工業化が一気に躍進。

しかし、戦争が終わってヨーロッパ列強が生産市場に完全復帰すると、日本の輸出は一転不振となって過剰生産に陥りました。
株価は半分から3分の1に大暴落し、戦後恐慌と呼ばれました。そのため1922年に創業した会社は、前の年の3分の1程度しかありません。

そんな激動の時代に当社は創業。
当時の社名は水谷ワニス工場。創業の地は現在のJR難波駅近くでした。

当時の主力製品は帆布などに塗装する防水油で、創業者の水谷小太郎が防水布メーカーに勤めていた時から研究、開発した製品です。
事業は好調で、すぐに工場は手狭になりました。

創業から間もなく、1927年には広い土地に本社を移転し、さらに1931年には第2工場も設置。
1930年当時はアメリカから輸入された金属製ラジオの塗装を真似た、チリメンエナメルを国産化することに成功。
ラジオや事務機などの金属製品への焼き付け塗装に使われ大ヒットしました。

好調な業績を受けて、1931年には東京都名古屋に営業所を開設。
当時の東京は、1923年の関東大震災からの復興の最中で、名古屋は工業都市へと急速に発展しているところでした。

しかし、順風満帆だった当社を不幸が襲います。
1933年2月14日亜麻仁油を煮てボイル油を製造していた工場で、昼食をとるため従業員が持ち場を離れた隙に油に引火し、工場火災が発生。
火は瞬く間に燃え広がり、本社工場は全焼。製品設備類は全て灰塵に帰しました。

順調な歩みを重ねていた時期だけに、今回の火災にはさすがの水谷小太郎も落胆を隠せませんでしたが、再び前を向き本社工場の消失から2ヶ月後、西成区津守町に新工場が完成。
同じ町内にあった第2工場と統合して業務を再開し、好調な塗料需要のおかげで以前と変わらない生産ペースを取り戻すことができました。

この頃当社は、船底塗料やラッカー塗料の販売を開始し、アジア各国に盛んに輸出。
さらに国産自転車の増産に合わせて、当社の焼き付けエナメル塗料が大量に納入されました。

1934年、当社は自社特許により電気絶縁塗料、絶縁用ワニスを開発し、これを含浸させた絶縁用綿布や紙テープの販売を開始します。
電気絶縁塗料は現在の電子基板に使用する銅線の被膜や絶縁に使われるもので、当社は西日本の市場をほぼ独占していました。

本社工場だけでは供給が追いつかなくなったため、現在のJR茨木駅から1kmほどの場所に茨城工場を新設。

1939年、第二次世界大戦が開戦。
戦局が切迫するにつれ国内の戦時体制が強化され、ついには生産効率を上げるため「企業合同せよ」と国から要請されました。

その時、当社に某大手の電気関連の系列会社が合併を持ちかけてきました。
合併は苦渋の決断でしたが、これを容認した水谷小太郎は常務に就任し、当社の茨城工場は合併先の事業場となりました。

その傍らで、水谷小太郎は当社の明脈を保つため旧本社工場内に塗料販売会社である、菱水塗料株式会社を立ち上げます。
菱水塗料は東京名古屋の旧営業所を傘下に入れ、塗料販売に専念しました。

1943年に水谷小太郎は合併先を退職し、旧本社工場を売却。
それを元手に、現在の本社の場所にあった染晒工場を買収し、東亜理化学工業株式会社の看板を掲げました。
海軍工場の下請け工場として塗料の原材料の加工を行い、辛うじて事業を維持しながら1945年に終戦を迎えました。

終戦後、戦災や占領行政下、日本の産業界は機能不全に陥っており、復興への道を歩み始めたのは1946年からでした。
物資不足だった当時、塗料の原材料は生産能力に応じた配給制だったため、すぐには塗料製造業を再開することができませんでした。

水谷小太郎は中小規模の事業者が塗料の製造に戻るには、政府公認の団体を結成するしかないと考えました。
そこで商工省の助言を受けて、大阪府庁へ陳情を開始。

組合設立に手応えを感じ、戦果で廃業させられた多くの同業者の賛同を得て、1947年に近畿塗料工業協同組合を創設しました。
初代組合理事長には水谷小太郎が就任。

後に同組合は大阪府行政による名称変更要請により、現在の大阪塗料工業協同組合となりました。

1947年9月、通産省からの通達を受けて、当社は念願の塗料製造業を再開。
1948年には東京出張所、名古屋出張所を開設。

そして1949年1月、当社は社名を現在の水谷ペイント株式会社と改めました。

1953年に合成樹脂塗料ポリマー#6000の販売を開始。
日本で合成樹脂塗料の開発が本格化したのは1950年代からのことで、ポリマー#6000はビニルモノマーの自家重合による合成樹脂を開発したという点で、国内初の快挙であり日本初の合成樹脂塗料でした。

また、セメント瓦に塗装できる初めての塗料であり、市場で非常に高く評価されました。
当時セメント瓦の製造会社の70%近くが九州に集中しており、ポリマ#6000の営業活動のため発売の翌年に福岡支店を開設。
同年中に地元の有力販売店を中心とした九州菱水会を結成しました。

ポリマ#6000は屋外のセメント系製品に塗装できる画期的な塗料で。
これを屋内のセメント床面に応用してはどうか?当時東京支店長だった今井清のこの発案が、1955年にボウジンテックスを生みました。

時代は電子産業の発展期、ICなどの精密機器工場にとって塵埃や湿気は大敵でしたが、当時の工場の床はコンクリートがむき出しで粉塵もほぼ放置されていました。
防塵効果をPRしたボウジンテックスは破竹の勢いで大手家電メーカーの工場に広まり、現在に至るまでニーズの絶えない売れ筋製品となりました。

さて、塗料の生産量は1950年に始まった朝鮮戦争による特需景気で、年々増えていきました。
当社は塗料需要の拡大を受けて設備の拡充に取り組み、工場の建設ラッシュが始まります。

1957年にはラッカー工場を新設し、製品開発のための研究室品室、管理課、検査課などが整備され、より先進的な製品の開発を行う体制が整えられました。
1959年には酢ビアクリル樹脂の反応工場を新設。
続いて1961年にはメラミン樹脂工場を新設。
3年後の1964年には、酢ビエマルジョン樹脂の反応工場を新設しました。

この写真は反応工場設立時、何もなかったところに足場が組まれた写真です。

さらに1966年、新ワニス工場の名称でアルキッド・ポリエステル縮合反応装置が完成。
この時点で当社には4つ反応工場が稼働しており、中小規模の塗料メーカーには珍しい充実ぶりでした。

1969年3月には、福岡支店を現在の糟屋郡粕屋町に移転し、工場も新設。

1974年にはそれまで平屋の検査棟だったところに、鉄筋3階建ての技術棟を建設しました。
さらに翌年、技術棟の隣に粉体塗料工場を新設。

加速度的な進化を遂げた生産環境は、より良い製品をよりきめ細かく、より大量に生産することを可能にしました。

1966年に発売した外装材トップコート、ポリマゴールドは大量に出荷され、1975年頃には当社の売上の約3割を占めるまでに成長。

ところが1975年頃になると、第一次オイルショックの影響が塗料業界にも鮮明になりました。
産油国の輸出制限による原材料の高騰と、政府による塗料価格引き下げ要請があり、塗料メーカーは各社とも低収益に悩まされることになりました。

激しいメーカー間競争を生き残るため、当社は既存製品を大幅に整理し、社内体制の全面的な効率化を図りました。
活用を始めていたコンピューターのレベルアップを進め、1978年にオフィスコンピューターの本格運用を開始。
さらに脱石油を目指し、1975年に粉体塗料オキシプラストの国産化を開始。

1980年には日本ではまだ珍しかった水系塗料「水系ポリマー」「水系ひかり」を発売し、カラーベスト屋根の改修塗装で大ヒット。
世界的に環境保全意識が高まるとともに、水系塗料の需要は徐々に伸びていきました。

1987年には、従来の5倍から6倍の生産能力を持つ新水系塗料工場が完成し、同じ年にコンピューター制御の立体自動倉庫も完成。
1990年からは、営業拠点に関する動きが活発になります。

1990年2月、広島支店を現在の広島市南区に移転し建物を新築。
また当時当社では、関東市場の開拓が西日本に比べて遅れており、1980年代から関東市場への注力を始めていました。
これを更に進めるため、1990年4月秋葉原に東京北関東南関東の拠点を統括する関東本部を設置。

さらに同月、名古屋支店を中部支店と解消し、場所も名古屋市から春日井市に移転し建物を新築しました。
そして1996年2月には東日本における製造と物流の拠点となる、埼玉工場が完成。
これに合わせて北関東営業所も工場内に移転し、現在の埼玉工場北関東支店の体制が整いました。

1997年には、営業の体質転換を目指した営業革新プロジェクト、SIP88を開始。
2015年からは戦略内容がさらにパワーアップしたSIPⅡへの取り組みも開始し、今なお進化し続けています。

1998年9月当社は品質管理・品質保証の明確化のため、国際規格であるISO9001の認証を取得。
また環境意識の高まりから2003年12月には、環境マネジメントの国際規格である、iso14001を取得。

社会の環境保全意識が高まりつつあったこの頃、2004年4月に当社は世界初の地球温暖化対策、壁用塗料としてナノコンポジットWを発売。
この製品は世界初のナノテクノロジーを活用した塗料で、2007年にはその優れた研究と開発が認められ、日本三大技術賞の一つである井上春成賞を受賞しました。

塗料業界での受賞は、当社が初めてという快挙でした。

ナノコンポジットWは、今でも世界でオンリーワンの革新的な製品です。
またこの製品は、業界初の産学官連携で開発製品化された製品でもあり、これをきっかけに当社の産学官連携による製品開発が活発になりました。

またナノコンポジットWの発売と同時に取り組んだのがパートナー施工店の制度です。
この制度はナノコンポジットWを使用した当社のファンの施工店を組織化することを目的としています。
パートナー施行店には様々な販促特典に加えて、毎年勉強会を開催し、当社との信頼関係をより濃密にしています。
現在では、日本全国に約4300社がパートナー施行店として登録。

さらにナノコンポジットWの開発は、当社の海外ビジネスも大きく動かしました。
当社の技術力をPRして中国や韓国の塗料メーカーとビジネスを始め、2011年にはドイツのシンソポール社と技術供与契約を締結。

2010年には、生物由来の資源バイオマス原料を樹脂骨格中に組み込んだ塗料、バイオマスRが発売されました。
発売に際して開催された記念式典では、研究活動をリードした水谷勉専務と大阪大学の宇山教授がご講演されました。

この塗料は大阪大学との共同研究で開発された、ナノコンポジットWに次ぐ当社2つ目の産学官連携による成果。

2011年3月、東日本大震災が発生。
東日本各地で大きな揺れを観測し、大津波や火災などにより12都道府県で22,000人以上の犠牲者を出しました。

当社の従業員に人的な被害は出なかったものの、大災害への備えは喫緊の課題となりました。
当社はかねてより検討を進めていた、BCP事業継続計画を本格的に実施するため、直ちにBCP委員会を設置。
その後、BCP委員会は2018年に発生した大阪府北部地震、同年9月に発生、関西に被害をもたらした台風21号などの災害へ迅速に対処するとともに、新たに浮き彫りとなった課題を解決するための重要な場となっています。

2012年札幌営業所を再開設。
札幌の営業拠点の歴史は1957年に始まり、場所を変えながら現在まで続いています。

2014年には仙台営業所を新設。
もともと仙台は北関東支店の管轄下で対応していましたが、東日本大震災直後に現地を視察し復興状況を見て、仙台市に事務所を構えることを決めました。

2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、世界経済は異次元の打撃を受け日本でも緊急事態宣言が発出されるなど、世界中が未知の感染症に翻弄されました。
そんな中、当社は社会の要請に応えるように抗ウイルス塗料、ACコートシリーズを2022年4月に発売。

ACコートシリーズは、経済産業省の戦略的基盤技術高度化支援事業、通称サポインに採択され、金沢工業大学と大阪産業技術研究所、大阪科学技術センターの協力のもとで開発された、当社3つ目となる産学官連携開発製品です。

そして2022年3月、当社は創業から100周年を迎えました。

現在は次の100年に向けて約40年間当社を支えたコンピューター機関システムを公開するための新機関システム構築プロジェクトや、生産効率を高めるための生産性向上プロジェクトに取り組んでいます。

また2023年3月からは、原材料の高騰やエネルギー物流費の高騰で厳しい中、社運をかけた大型製品としてナノテクシリーズを発売。

「企業は環境適応業」だと言われています。
100年の作業の中で当社は何度も大きな困難に見舞われながらも、多くの取引先様のご支援のもと、時代の先を見据えた製品開発で現在まで事業を継続することができました。
当社はさらに50年先も、変わらぬご愛顧をいただけるよう、揺るぎないものづくりの精神を土台とし、時代に応じて自らを変化し続けます。

当社は100周年を通過点とし、今新たな歴史に踏み出しています。

引用:水谷ペイント株式会社 100周年記念動画

二見勇治

著者:二見勇治 Futami Yuji

建築塗装アナリスト
企画・取材・撮影・動画清作・ライティング・マーケティング 担当
東京都出身。建築塗装業の長男として生を受け、多くの職人達の中で育つ。塗装職人と造園職人の修行を積んだ後、カメラマンへ転身。出版社カメラマンを経て2001年よりフリーカメラマン。
雑誌・書籍・広告撮影、塗装関連の写真・動画制作、リフォーム会社広告担当を経験。
建築塗装の新たな表現を模索中。